こんにちは。PAPA KUNIです。
行き過ぎた子供への暴力による凄惨な事件の報道を頻繁に見るようになった。
ある日、3歳になる男の子の着替えをその祖母がすることになった場面に同席した。子供は何かが気に食わずに着替えのために体に触れられるのを鳴きながら嫌がっている。するとその祖母はなかなか思い通りに着替えさせてくれないからか急に酷いにらみの形相になり大声で何で暴れるのよ、早く着替えないとダメじゃないのというようなことを頭ごなしに強い語気で叫びながらズボンごと子供を持ち上げるが子供は暴れて床に落下し頭をゴチンとぶつけてギャン泣きになった。それでもギャン泣きする子の足を無理やり乗りかかるように抑え込み着替えのズボンにねじ込むと自分がいかにに苦労したかのようなため息を一つはいて子供を置き去りにした。あっという間の出来事だった。同じような場面は何度も見かけたことがある。子供が嫌がる理由を何となく感じる。
もう少し嫌がっている理由を探ってあげられなかったのか、もう少し笑顔の優しい顔を見せてあげられなかったのか、もっと丁寧に着替えをさせて挙げられなかったのかといろいろと渦巻く。子供は伝えたい何かがあったに違いない。巨人に大声で意味の分からないことを怒鳴られて暴力を振るわれ恐怖に慄いていたに違いない。何よりも信頼しているこの人に優しくしてもらいたかったに違いない。
将来は忘れてしまうようなことかもしれないがそれは本当に忘れてしまったのだろうか。自ら心のスイッチを切ったのではなかろうか。間違いなく子供の心には深い傷となって残っていると思う。そして続けているうちに子供も心が麻痺して他人のことを考えられない人間に育ってしまうかもしれない。そのうちその方法しか頭に浮かばなくなり家族の問題解決に暴力を使う様になるかもしれない。切ない瞬間と切ない未来。
恐らくその子の祖母本人は暴力をふるったとは思っていないだろう。しかし、自分自身が自分の3倍もある大巨人に大声で怒鳴られながら、嫌がっても力づくで服従させられ、逃げようと暴れても腕力でねじ伏せられて持ち上げられながら服を無理やり脱がされ、床にゴチンと後頭部から落とされたら、警察にでも行くに違いない。子供にとってはそんなことが起こっているように思える。これは世話や躾に名を借りた立派な暴力だと思う。力の暴力、恫喝の暴力、脅しの暴力、心無い言葉の暴力。暴力なしに何とかならなかったものだろうか。大人同士なら既に犯罪の域のような気がする。
また別のある日、熱海の旅館である母親が6歳になる女の子に勉強をさせようとしていた。ただ、その子供の様子が初めから少しおかしかった。何かを鉛筆で書くような練習をしていたのだと思うが、子供はやりたくないのか親が添える手で自分の手が痛いなどというような言い訳をしていた。そして子供は何かを恐れていた。次の瞬間、母親はイライラ顔から急に変貌したように鬼のような形相となり何でちゃんとやらないのよというようなことを劈く様な大声で怒鳴りつけながら、子供が鉛筆を持つ片方の手だけを力づくで握り子供の片手を釣り上げるように持ち上げた。女の子は片手で吊るされながら足を曲げ体が委縮したままギャン泣きとなったが、泣き叫び恐怖に慄く子に対し、更に力を込めて釣り上げたまま、練習するときは手が壊れてもやるものだというようなことを睨みつけながら迫り大声で怒鳴り上げた。そして大人の肩くらいまで持ち上げていたその位置で手を離した。子供はその難しい体制で高いところから床に落ちたが、痛みよりも怯えている様子でギャン泣きしていた。その後、急に猫なで声でほら嫌でしょというようなことを言うと子供も親の機嫌が直り安全になったと思ったのかどうかわからないが少しは普通の雰囲気になったが顔には影がかかったままだった。小さい子なのに切ない表情だ。こんなことを何度か目撃した。
以前同じような場面で注意してみたが逆切れして一向に聞く耳を持たず逆にこちらに攻撃してきたというようなこともあり、自分の子ではなく最終的には責任を負うことができないので遠巻きに見ていた。
子供は殺されそうになってもどうしても母親に向かう。親が怒ったり困ったりしているのは自分が悪いと思ってしまう。自分のせいで悪くなった母親の機嫌を取りたいと思ってしまう。本当はそうではないが子供はそう思う。切ない心の修正だ。そして他の普通に優しくしている親よりこういう虐待が常態化した親の方に一見従順になったように装うことに巧みになる。そして、いつの間にか人の心どこかの部分を無くす。ちゃんとした父親がいればそこが心の逃げ場になると思うが、形だけ面倒を見ているような父親ではなかなか心の逃げ場になることはできない。そしてこれは母親という存在の力を使った先ほどの祖母よりさらに卑劣な暴力だと思う。
もう少し丁寧にできないものなのか。力づくで必要のない暴力をふるう必要があったのだろうか。大きな声で子供が理解できない心無い言葉で怒鳴り声で恫喝して言うことを強制的に聞かせようとする必要はあったのだろうか。子供の権利を奪うことで自分のエゴに従わせることに良心の呵責はなかったのか。優しい笑顔で丁寧に手を取って手伝ってあげることはできなかったのだろうか。自分の行動が子供の未来を奪っているということに気づかなかったのだろうか。いろいろと思う。
この母親も自分が暴力を振るったとは思っていないのかもしれない。自分が書類を書く場面で今はやりたくないので断ると自分の倍もある巨人に力づくでペンを持つ手を強力な握力で握りしめられその手だけで体をすべて持ち上げられ、更に何で今書かないのか、こういう時は手が潰れるまで書くものだなどと意味不明なことを鬼の形相で怒鳴られ恫喝された上に、自分の背丈の遥か頭上の高さから床に落とされたら、警察でも呼ぶのではないだろうか。暴力への認識の物差しはどの辺にあるのだろう。この母親の母親、つまりこの女の子の祖母から幼少の時に同じような扱いを受けてスイッチの切れゆく心で無意識に学んだのかもしれない。
自分がやられたら暴力、自分が振るったら暴力ではないということはない。この子はその様子から日常的に似たようなことが起こっているように感じた。だんだん心が麻痺し、ゆくゆくは本人も何の疑問なく問題解決にこの方法を使うようになるかもしれない。将来の光を心ない親の行動で消し去られていく子供達が不憫でならない。
この暴力に対する認識は人によって違う。世話や躾で暴力や恫喝が正当化されると思っていたり、大声で怒鳴る恫喝や子供の権利を奪ったり、権利を与えることをちらつかせる脅迫を暴力と認識していないことも多いと思う。なぜそうなるのだろうか。
大人同士ならばハラスメントは社会ではいかなるものも許されない。暴力や恐喝や恫喝は明確な犯罪だ。いじめも同じ。力関係やお金に恩を着せる巧妙で卑劣なパワハラ、性的な嫌がらせのセクハラなどハラスメントは今や細分化されている。そんな見えない力関係を使うようなハラスメントをする人は卑劣で巧妙な手口を使い、まるで心を持っていない人非人なのではないかとさえ思わせることもある。大抵は利己的、物事の本質を理解することに長けていないが表面上取り繕うことは得意、相手の心を感じることができない、目的のためには手段を選ばない、一部真実を含んだ巧妙な嘘を表裏でうまく使いこなし人を狡猾に騙しながらうまく操ることに長けている、ルール違反や人の迷惑になることなど社会通念上悪いと言われることをしてもどこにも良心の呵責が見当たらない、というような性格が当てはまるような気がする。こういうタイプの人の周りの人は知らず知らずのうちに精神がやつれていく。そんないつも協力的な態度で味方と妄信していたのに実は後ろでひっそりと刃を突き立てていたという人物から身を守る方法は2つ。まずは親しき中にも礼儀ありということで一線を引く、そして、情報を一切与えないということだ。できれば静かに離れたい。と例えが長くなってしまったが、大人ならこうなるかもしれない。
いじめならば子供はどの部分がいじめでどのように対処したらよいのかを認識して実行するのは難しいと思う。大人の助けが必要な部分だ。幼児も子供も、よもや愛してくれる存在と妄信していた自分の親からハラスメントや恐喝や恫喝、身体的虐待、精神的虐待などあってはならないことを自分が受けているとは考えない。単なる殴る蹴るや怒鳴る、恫喝するだけではなく、ご飯を与えなかったり無視したりするのもネグレクトという卑劣な虐待で子供の心を壊す凄惨な暴力の一つだ。体でも心でも理不尽に痛めつけられるのが暴力だ。心無い暴力によって幼い心に負った傷は一生消えずに人生に影を落とすが目に見えずらいこともあり他人は認識しづらく尚更厄介だ。暴力を受けた子供のことを考えるだけで切ない気持ちがこみあげる。
大抵の人は大人に対してのいかなる暴力も我慢できると思う。世間のルールでいうと犯罪だから。道徳的には人が嫌がることだから。いずれにせよ少なくとも理性をもって犯罪は侵さないと思う。なぜ、大人に対しては絶対にしないような犯罪の部類に入ることを子供に対してはたとえ犯罪となる内容の行為であっても平気でしてもいいと思ってしまうのか。心無い言葉の暴力で冷酷に子供の心を切り刻むことを平気でやるのはなぜか。捕まらないからか、見つからないからか、そもそも悪いと思っていないのか。不思議だ。そういう意味で、そもそも脅迫や恫喝、虐待、心無い言葉などを含むあらゆる暴力とはどういうものか、そして、いかなる場面においてもどんなに小さい暴力でも振るってはいけないということについての認識を広げる必要があるような気がする。
私はいかなる暴力もハラスメントも虐待もすべて反対だ。どんな小さな暴力も、いかなる種類のハラスメントも無意識の虐待もすべて反対だ。どんな時でも脅迫という暴力を使うことも反対だ。自分自身が使うのも使われるのも嫌だからという単純な理由だがこれが真実に近いのではないかと思う。
人間なのでハッと気づくと声が大きくなっていることもあると思うが、もし気づくことができたならば、子供の心を宝の様に大事にすることを第一に考え、そんな時こそ笑顔で優しく丁寧に子供に接し、そして、自らも子と共に成長したいと思う。