語る写真の試み

心の顔



近頃はこのパレイドリアシュミラクラブのコーナーのために習慣的に地面にある蓋に目を向けることがよくある。

ふと地面に目を落とすと何か言いたげな顔が見えた。

四角くエラの張った顔、四角い頭。

黒目がすべて見えるように見開いた目。

目の脇のカラスの足跡や顔しわやシミ。

どこか取り繕った顔の外観と表情の雰囲気。

心の顔。





こういう人の特徴的な心の声が聞こえる。

なんでお前のところの芝は青いんだ。

俺はこんなに頑張っているんだからもっと青くなっていいはずなのになぜお前の芝ばかりが青いんだ。

内に秘めた果てしない憎悪と嫉妬。

疑心暗鬼が闇に広がる。

本当はあなたも幸せなんですよという意味も込め、こちらから見ればそのままその言葉を持ってご自身の姿を今一度見てくださいと、心持は違えどもその言葉をそのままお返ししたいことも多い。


自分は幸せだと思っている人が幸せな人である。どんなことでも自ら幸せだと感じればいい。

もっといいことはないかといつも探している人は結局劣等感に苛まれ哀れな人生を歩んでいる。

何でもかんでも自分に関連付けてはすべて自分のものということにしたり、人の手柄さえも自分のものにしたりしたいというようなおこがましい人は社会の中で生きていく上でのバランス感覚が欠けている。

人と比べて自分が足りないとばかり考えている人は、その人の思っていることとは違う意味で、心の内面がその通りなのだと思う。

自分のことを過大評価している不遜な人は他人が結果を得るために努力した過程に目を向けることができていない。

もちろん運や縁が左右することも多いが、大抵やり玉にあがるような結果の場合には誰しもがそこに立つためには同じ大きさの努力をする必要が伴っているということはよく気づかれていない。

本当に心が目指していることとは何故か逸れたことに向かって間違った無駄な努力をして結果にたどり着いていない人で声の大きい人の中には、真っすぐに答えに向かう努力をして結果を得た人のことは全くもって理解できず、更に本当の意味での自分の努力不足や辛抱強く思慮深い考えを続ける努力の欠如に目をつむって平気な人もいる。

知ってか知らずか周りの人に迷惑をかけていてもまったく気づかず、それでも平然と生きていくことができている人もいる。

そういう人もいるという部分ではそれはそれでいい。そうでない人は親しき中にも礼儀ありということでお互いのために心の線を引いておけばいい。

どういう気持ちで物事に取り組んでいるのか。

まず、自分のことは自分でやる。

物事の本質を理解する。

延々と引き継がれている社会の中で生きているということを知る。

自分のことを幸せだと思っているということだけが自分が幸せだということの根拠である。

その辺りに一つのヒントがあるような気がする。

どんな人も幸せを感じながら生きてもらいたい。