語る写真の試み

狂気の涙



歪んだ目、歪んだ心。

心が見えず、独りよがりの世界に頼る。

一見心を捉えきれずに苦悩している様にも見えるが実はそんなことを感じることもない。

自分の思い込みを何とかしようとしているだけの狂気の現れ。

もう一方は、さも魅力的なように取り繕い、涙で情緒を掻き立てる欺瞞の目。

特に両目の底で鉄瓶の様な感情のない鈍い銀色が外から射す光を遮っている時には要注意。

目の奥のシャッターが下りて曇っているだけの人ならば、少し思い直って、そっと丁寧にその中に隠されている心を覗いてみることもできる。




歓楽街の街中の壁にあった換気口で見えた顔。

左の顔は本当の顔。

右の顔は作っている顔。

目は口ほどにものを言う。

という訳でもないのかもしれないが、そんな気がしてならない。


良い心がない人は、欺瞞に満ち、心がないことがばれないようにニヤついた顔で歪んだ心の目の片鱗を包み隠していることがある。

しかし、目の奥底のその先ではその表情とは全く関係なく、欲を貪り食う捕食者のような冷酷な考えで冷静にこちらを観察しているだけ。

心はあるようでも心を捉えきれないような人は、自分の理解の範囲で頑張ろうとしてどこかで心が痛まなければ楽に結果が出せる欺瞞の方法を学んだだけで悪気がなく、欺瞞の目を隠すことを考えていない様に思える。

それは、周りの人の心を削り、体を削り、そして命を削る。

人格ではなく、人ならぬものの業に対する処し方に着目する。

そんな脳の機能不全の問題も科学で大分明らかになりつつあるが、それと併せて、そろそろ世の中が心の存在について再び考える時代が来たのかもしれない。