子と共に育つパパくに記

アイスクリームは栄養食



こんにちは。PAPA KUNIです。

子連れの親戚の皆で散歩中に大好きなソフトクリームのカンバンを見つけ、それーっ、食べるぞう!と盛り上がっていると突然水を差した人がいた。

”そんなものばかり食べると体に良くない、子供が太ったら子供が可哀そうじゃない、買い食いなんて、、、”などと楽しい雰囲気を一気に盛り下げた。

しかし、その後、自分の連れている孫だけには大きな焼き櫛団子を買い与えていた。

”この子はこれが好きでよく食べるの”と自分は嬉々として買い与えている。顔より長い串に刺されている何とも大きな櫛団子兄弟。

おーい、どこから突っ込んだらいいか分からないじゃないかーっ、と心の中で叫んだ。

悪気のない人だということは十分に分かっているので、心の中でもやもやとした気持ちを吹き飛ばすべく楽しく突っ込みを入れることができる。




全体の流れを考えても本質的には外で買い食いすることを悪いと言われたわけではないような気がした。

アイスクリームという食べ物を嬉々として食べる人に対して何らかのイメージだけでその行為を脊髄反応的に拒否したのだというのが簡単な理解だった。

一通りの行動を見るにつけ、好きなものを食べさせてあげたいという気持ちは同じだったと信じたい。

そんなコントのような、ちょっとした劇場のような現場はさておき、その時感じたもやもやしたものの正体の根は具体的にはどの辺にあったのだろうかと自分なりに自問自答で考えてみた。

ソフトクリームの主な成分を簡単に考えると牛乳と砂糖。小さい頃は牛乳を飲むと背が伸びると言われてよく飲んでいた。実際に背はそこそこ伸びた。その面では豆乳や肉でもよいと思う。細かいことはよくわからないが良質なタンパク質のおかげだろう。骨も筋肉も皮膚も髪もすべての体の部品にはタンパク質が重要だ。体を動かしたり守ったり、脳が正常に体に命令することにさえタンパク質は重要な物質だ。味付けに使われている砂糖は糖質なので必要なエネルギー以上の摂りすぎは確かに良くないかもしれない。

団子は米と場合によっては小麦やスターチ。団子は糖質の塊。必要なエネルギー以上の摂りすぎは体に悪い。

そこで一時悩む。



何をもって体に良くないと言われたのか。頭に浮かんだことをただ口ずさんだだけだろうから具体的にはもちろん分かる術もないと思う。それはそれでいい。

やはり、その瞬間の出来事としては、アイスクリームに対する何かしらの勘違いによる反応や嗜好品に喜んでいるイメージに対してのいわゆる単なる脊髄反射のような反応という気がしてならない。

日本では、自分がやってあげられていなかったような、例えば嗜好品を喜んでいる人に対する拒絶反応みたいなことは往々にしてあることなのでそれもそれでまあ理解はできる。

つい寸前に他人に何かしらの注意をしていたほんの次の瞬間に嬉々として同じような性質のことをしている人もよく見かける。そんなことを考えるとあの場の雰囲気を盛り下げる拒否反応は何だったのだろうかと悩むこともあるかもしれないが、それは脳の動きを管理できていない人の意味のない行動に対する無駄な悩みなのかもしれないと思う時もある。

ところで、今のところ自分の中ではアイスクリームは機能性食品などに似ている栄養食のようなもののような気がしている。原料の牛乳にはビタミンC以外の栄養素がバランスよく入っている。アイスクリームに含まれる乳脂肪は直ぐにエネルギーに変わるタイプなので太りにくいということらしいので活動前の朝食や活動中の軽食にも向いているかもしれない。もちろんなんにせよ食べ過ぎは良くないと思うが、効率よく、且つ美味しく楽しく栄養がとれる食品なのではないかと思う。ソフトクリームのことを考えると冷たいことやデザートであることのイメージに踊らされるている人もいると思うが、そういうことを感じた時には口に入れる物は構成要素を大事にしたほうが良いのではないかと思うことがよくある。アイスクリームには味付けに砂糖が使われていることが多いと思うが、逆に多少の糖分が入っていることで朝の食事の補完的な食品としてや散歩中など疲れている時の補給にいいかもしれないと思う所以だ。大人のハンガーノックや低血糖の対処にもいいかもしれないとさえも思う。

そんな意味ではコーラや水ようかんのような他の多くの人が美味しいと感じるものなどで使える食品は多いような気がする。

少し話は逸れるが、子供の時分に潜在的に欲しているものを極度に制限されると、いつか箍が外れ、逆に偏った嗜好に陥る危険性が露呈する可能性もあると思う。それは例えば、いい子症候群のような状態でも将来PTSDの懸念がある強迫観念を使ったやり方でも結果として制限されているという意味である。

ある時までは何らかの力で言いくるめられてしまっていても周りの子が嬉々として口にしているものがやはり自分にとっても美味しいものだ気づく日がいつかはある。人それぞれの趣味嗜好があるので自分が好きでなかったという結論ならばそれはそれでいいが判断できるくらい口にしていないので本質的な確信は持てていないのではないだろうかと思うところもある。もし子供が不条理に我慢させられていたことに気づいたならば、その切なさを考えるとそれまでの人生が無性に哀れで非常に可哀そうだ。将来親としてそんなようなことに気づいてしまった時には果てしなく酷い後悔をするに違いない。環境を作る側の理解だけで何事も範囲を決めて個人の人生の可能性の幅を制約するのではなく、例えば本当に食べたいのか食べたくないのか、ひいては食べるべきか食べるべきでないのかを自分の人生を歩んでいる本人自身で決められる様な環境を作ることができればそれはそれでいいことだと感じる。それぞれの考え方ややり方があるのですべてを一つに結論付けるわけではなく、これは単なる一つの思考テストである。

コントの場面に戻ると、好きなものを好きなだけ食べさせてあげたいですよねという肝要な出発点の部分でお互いに同意ができていればその後のやり取りは本能的な反応であってもまずは心の持ち方としてすっきりしたのかもしれないと漠然と思ってみたりした。

食べたいものを食べたいだけ食べさせてあげる。実は、裏にはホメオスタシスの働きがある。心には欲望の指令もある。子供が自分にとっての物事の適度を自ら知るということを親が手助けするということはどういうことなのか。ここに一つヒントがあるような気がする。

知れば知性と理性を養うことができる。知らなければ知性も理性も育つ余地はない。

子供を信じて自分で好きなことを好きなだけやれる環境を整えることに限られた心血をできるかぎり注ぎたいと思う。