子と共に育つパパくに記

基本は生活している国の言葉で教育する



こんにちは。PAPA KUNIです。

子供の教育に用いる言葉については少しでも国際的な場面を経験したことがある人ならば強く関心を持っている人も多いのではないだろうか。

まず、子供の教育に用いる言葉の基本はその時生活している国や地域の言語がよいと思う。つまり、簡単に考えると日本に住んでいるならば日本語、アメリカなら英語での教育を受けるということだ。

技術的なことを考えれば例えば英語を使うようになるということ自体は大人になってからでもできるので、まずは、思考の基本となる言語をしっかりと養うことが肝要だと思う。文化や耳の問題は言語の習得を考える上で重要なことであり別の課題があるが、その前に本当にその言語を今身につける必要があるのかどうかを明確にすることは重要なことだと思う。必要がないのに思考の根幹を揺るがされたならば、その子供には不幸がふりかかったとしか言いようがない気がする。英語というテクニックを学ぶということならば早く始めるのに越したことはないと思うが、あくまでも思考の根幹の成長を補完してからの話だと思う。英語で学ぶということと英語を学ぶということの違いは大きい。

もちろん例外はある。例えば、住む地域が変わる場合や本人の希望も含め特性が明らかになった時などが考えられる。先々に移住する予定がある程度明らかな場合も例外的だ。そしてそれらの例外は逆説的でもある。思考を支える言語を維持する必要が出てくる可能性があるからだ。

そして、さらに、言語の違う地域に移る時には、本人のネイティブタンでの主な教育を3年ほどできるいわばクッション的な環境に加え、現地の言葉を加えていくことができる環境を作るようなイメージがある。その点では言葉を学び始める生まれてから6年くらいはどちらにも行けるように流動的な条件になることが考えられるが、それは必然的に2つ以上の言語から思考の根幹となる言語を選ぶ必要がある場合の話である。

その間に、本人の希望をよく聞くことがまず重要だ。並行して本人のネイティブタンを見極める必要もあるかもしれない。

その後、移り住んだ現地の言葉をメインにしていくか、そのままネイティブタンの教育を続けるかは本人の希望とその間の言語の発達も大きく関わると思う。いずれにせよ移り住んだ土地の言葉は生活や学習の中で学んでおく方が後々役に立つ場面もあり良いだろう。




ところで、子供の頭の中の言語について少し考えておきたい。

子供の頭の中の言語の、基本的な大別のイメージは、友達の間で使う言語、学校などを含む生活環境で使う言語、親などの家庭で使う言語だと思う。地域を移動する場合には自分の思考の基本となるネイティブタンの言語を持っている場合があるが、大抵基本の言葉のどれかに当てはまるだろうと思う。

稀にどちらの言語にも偏っていないようなバイリンガルやトリリンガルなど多言語を自由に使いこなす場合もあるが、発達していく中では、その比重は環境により日々変わっていくものだと思う。それはフィジカルに使う場合と頭の中で使う場合の両方に影響を受けるのではないかと想像する。

もう少し考えてみると、子供が言葉で接していると思われる外の世界は、家庭、親、学校、友人、先生、生活、メディア、遊び、学習などである。

どの世界に比重を置いているかは、もちろん、子供の心の選択次第だ。

これは推測だが、恐らく、子供は友人の世界を自分の世界として選んでいるのではないだろうかと思う。生活、学校、友人の世界が外の世界として自分を築いていく場所なので、そのあたりで使われている言語が主な言葉となるだろうと思うが、特に友人という存在は、その中で一番自分に近い世界感を共有し、言葉以前の共通意識で共に世界感を作っていると認識しているような気がするからだ。これは大人になると社会との関係ということに紐づいてくることだと思うが、自分の世界観を作っている段階ではまずは仮想的に友人という世界になるのではないかと思う。少し脱線すると恋人との会話に重点を置く若者のようなイメージだ。

そういう面では残念ながら親の言語の影響度はほんの1割程度くらいのような気がする。それは、親は言葉はなくとも理解して受け入れてもらえていると無意識に思っているというようなことがあるような気がするからだ。

そんなことを考えてみると、実は、これから日本が憂うことになる低コンテクストの社会を生き抜く術を子供はすでに本能で知っているということなのかも知れない。本当に子供は進んでいる。

また、先日出先でのちょっとした会話に思うところがあった。



父親は英語のネイティブタンの英語教師、母親は日本語。日本で日本語の学校に通う子供の英語を維持し、将来本質的な意味でのバイリンガルなれるために今できることは何かという会話になった。英語が重要という話ではなく、住んでいる土地の言語でない言語を維持するという意味だった。

その話によると、父親はいつも英語を使っている。母親は日本語。それぞれの文化的な背景もあり効果的だし、それはいいことではないかということだった。子供にしてあげられる環境整備は、ディズニーチャンネル、Youtube、インターナショナルスクールのアフタースクール(英語を教えるというより英語で学ぶ)くらいかもしれないということだった。友人に英語を話す子がいればなお良いだろうということだった。

そういう話を鑑みても、言語を維持していくには、親、家庭、友人、遊び、学校、先生、生活、学習、メディアなどの要素を持つその言語を使う環境を整えていくことにヒントがあるという理解もできる。家庭や親以外の部分を変えることで使える言語が変わるということは、やはり、残念ながら親の影響度は小さいのかもしれない。ただ、親としての儚い希望的には、限られた影響の中で子供に重要な部分を伝えられていればいいと思う。

そういう前提ならば、日本にいれば、学校や友人や生活などで日本語は強く身につくだろう。親が英語を話す文化背景を持つならば尚さら、英語のことを考えると一度身に着けたネイティブタンを維持しながらどこまでいけるかというところが気にかかるところだ。

感覚的に言えば、本人に希望があれば、自分である言語を使って学ぶことができる年齢になるまでは何かしらの方法でその言葉を使う環境を維持することが重要だと思う。

その段になれば、本人が自分の意志でどうしたいのか選ぶことができるようになっているだろう。