子と共に育つパパくに記

すべての子を育てる時の心の持ち方の方法論は同じ



こんにちは。PAPA KUNIです。

大前提にある大事だと思っていることは、いつでも同じ2つ。

心を大切にすること。

子が自ら育つ環境をつくること。

初めから自分一人で育つことができればよいがもちろん現実にはそうはいかない。成長の段階に応じて誰でも助けが必要となる場面がある。

子が自ら育つ環境を自ら作ることができるのがよいと思うが、時には親となる人がその補助の大役を担う。

まずは一人一人の人として向き合う。そして、子と共に親自身も成長する。



ある日、話の流れで親族に関するいくつか暴力に関する指摘をしたことがある。相手は同居と別居の2人の娘とその娘らの子供の計3人の孫を持つ男性と同居の娘婿の2人。男性の妻に当たる女性の同居の孫娘及び孫への暴力的扱い、同居の娘の孫娘への暴力的扱い。特に、物理的というよりは精神的な暴力について懸念があった。そして本人たちはそれを暴力と認識していない。子供の将来や発達障害への起因になるのではないかという憂いがあったが、そんなことは当然分かるだろうという思いもあり、具体的事実の指摘のみにしておいた。そして、そういう物理的、心理的な暴力をこの人たちはどこで学んだのかということを一緒に考えようとした。

普段の人懐っこい作り笑顔と女性がかった語り口からは普通の人は想像もできないだろうと思うその本性は突然に噴出した。お前なんてから始まる激高した口ぶりの暴言と縁を切るぞというような内容の恫喝。まあ、話の内容からはこの暴言と恫喝の内容は大分かけ離れていた。自らの独善的(毒悪的かも)な理解により、心の裏で悶々とこういうストーリでこういう結論に持っていこうと考えていたに違いなく、そうではない現実と話の流れを理解することを拒否し、正常な会話の中ならばチャンスを失ったこの暴言を煮え湯を切らして恫喝と共に口走ってしまったのだと思う。この家庭で延々と起こっている心理的暴力の巣はこれかと思っていた。本人は自分にとって不利益なことや自分の思い通りにいかないことに対して手段を択ばずに冷酷な心で対処しようとしただけなのかもしれない。いや、心はないのかもしれない。

そして、この話題について、まずは自分はそんなことは知らない、気づかなかったと言った。そんなはずはない。そして、ついには、自分の妻はいわゆる発達障害だからと言う。何かの言い訳に使おうとしていた。そして、同居の娘は精神病だと言った。ついには、別居している自分の娘のことをあの子は狂っていると言い出した。周囲の大切にすべき人を盾にしてその人格を陥れ、洗脳して利用し、自分だけを守っているように感じた。評論の立場でものをいうような素振りで自分の行いを責められないように棚に上げ、追い打ちで周囲の人間の人格を汚すことで人に責任を擦り付ける。なんという卑劣で浅ましい行いだろう。一番大事にしているはずの人たちに対するこの扱いと暴言の数々にあきれるばかりしかやれることはなかった。周囲の人が正常にこの内容をとらまえられることができたならば、なんという果てしない切なさだろうと思う。こちらは同居の孫娘と孫の状況を見て、確実に心を殺されてるだろうその将来を憂いているだけだ。

子供が育つ時期に子供の心とお互いに一人の人として真正面に向き合ったのだろうか。子供のために本質的に子供のためになる環境を整える気持ちはあったのだろうか。目に見えない心理的なことについては虐待や苛め、恐喝のような悪いことをして子供の心に恐怖を与えて支配してもばれないとでも思っているのだろうか。裸の王様は利己的な自分が極度に異常なのを自分だけは気づかなかったという。気づく心を持っていなかったのかもしれない。

さあこの状況を作ったのは誰だ、という疑問には自分の中ではすぐに答えが出た。そして、悔しく、そして、残念ながら今も延々とその呪縛は続いている。

そして、もう話を続けるのをやめ、静かに去ることにした。


子供の心と向き合ったり、子供の環境を整える努力をする中で、子供の心を安心させてあげられているかということは一番重要なことの一つかもしれないと思う。人生の歩みはその子のペースで良い。どんな子でもそれぞれの成長のペースがある。成長のペースを子供自身が決めることができれば尚良いのではないかと思う。

一つの簡単なイメージとして近頃話題になっているようないわゆる発達障害、広汎性発達障害、自閉症スペクトラムの旧アスペルガー症候群やADHDなどというようなキーワードで言われているような性質を持っている可能性がある子など、良し悪しは別として、社会が作り上げた枠組みの網にうっかりとかかってしまいそうな子も多く社会に認知されるようになってきたように見受けられる。

世の中の子供の状況には身体的なものや精神的なものから育つ環境までを含め、漠然と気になる程度の不確実なものから易々と目をつむることのできないものまで多種多様の心配事があるが、子を育てるための親としての心の持ち方の方向性は同じような部分が多いと感じる。

社会の中には一定の割合でいろいろな性格を持っている人がいる。それは身体的、精神的なものを含む。それぞれ良いところもあり、悪いところもある。個々の性格の違い自体は悪いことではなく、人それぞれ個性が違うということで、人それぞれ良いところを持っているのには違いがないということでいいのではないかと思う。理想論を言えば共存ということになるのかもしれない。場合によっては親しき中にも礼儀ありということがどういうことなのかを考えなくてはいけないという側面もあったりする事もあると思う。

育つ環境による少しのボタンの掛け違いで揃いも揃ってダメ人間にならないように、理想的には一人ひとりの性格に合った成長ができる環境があればよいが現実にはなかなか思うようにはいかないことも多い。

社会が正義かどうかはさておき、所属している社会との確執の部分が煮え切らない気分にさせることもあることは否めない。社会の定規は、良し悪しは別として、その属している社会の集約的な部分もあるからである。ただそれにどこかが合っていないからと言って人間的に悪いということなのかどうか、本人からすれば心の中で何か困った末の結果として行動に表れてきているものなのではないのかなどと慮ることは多い。

小さいうちに表面に見える行動や結果だけを見て、その定規ではみ出た部分があるからと叩いてしまうと、表面上は一時型にはまったように見えても、将来本人の心の問題となり、その状況になった原因を誰にも理解されることはなく、人知れず孤独に一生苦しみ続けることになることもあるのではないかと思う時がある。

そういうことを考えると、道の先には仕組みを変える必要性など大きな課題も孕んでいるのは分かっているが、社会全体として多からず少なからずそういう部分を乗り越えることも含めて、個別に生きやすい環境を作る今できる努力を社会も個人も共に少しづつでもできれば尚良いのではないかと思う。

もちろん人それぞれ一人ひとり具体的な状況は違うので、その状況により具体的な方法や目の前での大変さもそれぞれ違うのはよく分かっている。一方、この点ではその感じ方は親自身次第という部分もあるような気がする。ここに一つのヒントがある。

話は逸れるが、子供にはどこか怖いと感じる心や恐怖というくらい闇に縛られているところがあるかもしれないというような気がする。知らないことや経験したことがないことが多いからということもあるがそれ以外でも多かれ少なかれ本能的に何かしらの怖さを感じている子も多いのではないかと思う。

新生児から幼児なら尚更のこと、ある程度育ってきても何らかの知覚に関する仕組みや環境が原因で知ることが難しかったり、世の中に理解できないことが多かったり、得た情報を心の中でどう処理してよいか分からなかったりというような感じで、いつまでも分からないことや見えないことがある状況ならばいつまでも何かしらの恐怖心は続くかもしれない。

そういうことも含めて怖さを感じないようにいつでも安心できる環境、且つ、自らチャレンジして人生を少しづつでも前に進めるような環境づくりをしていくということは親ができる大きな努力であると思う。これも一つのヒントであると思う。

自分に対して他人は無責任だ。

そして、自分の子に対して他人はもっと無責任だ。

そういう意味では子育てのあらゆる場面で人から何を言われようが別にいいと思える。自分の子に纏わる環境も自分の信念も真実を知っているのは自分(達)だけだ。強く言えばこういうことになるのかもしれない。

もちろん、他人は本心から良くしてくれようとしてくれる人もたくさんいるし、この世でたった一人で生きていくことは到底できるものではない。ただ、そうは言っても他人には誰も自分のことについて責任を取ってくれる人はいない。自分と同様子供も一人の人であるということも含め、そういうことを常に忘れないでいることができれば、揺るぎない信念に支えられた自信を培うことにつながるのではないかと漠然と思う。

人と違ってもいい。自分の常識の枠にとらわれずに子供の良さを見つけて、子供の可能性が現実となって伸びていけるように、環境づくりなどで手助けすることが親としてできる最大の事であると言ってもいいかもしれない。

悪いところを叩き直せばよくなるというのは親のエゴと幻想で、その子の心と未来を叩き潰していることに等しいと感じる時が多々ある。心のない親の場合は更に質が悪く、その部分は知っていながら自分の利益と保身のためだけに利用するために意図的に実行する確信犯であると感じ、特にその子の心を利己的に蹂躙しにじり潰していると思うと憤りが湧いてくる。

そういう中で上手く育つ子もいるかもしれないがそれはレアケースで、そういうことを表現しようと語られる内容はいわば作られた偽りの美談に近いものがあると感じることが多い。もし、現実にそうだったとしたら、その子自身は尋常ではない心の努力で遺伝子を塗り替えたに違いない。そして、ほぼすべての子はそうではなく、またそういう親のエゴで作られた環境で育った子が、将来、幼い心が傷ついてしまった悪い影響を永きに渡って受けるに違いないということを逆に危惧する部分がある。特に懸念し、憂うのはこの部分だ。こういう悪しき心の遺伝子のようなものは世代を超えて伝わり、種の根絶に向かうような気がするが、その経緯で巻き込まれ、原因も分からず命を落としていった周囲の人間の悔恨の涙はなかなか語られることはないかもしれない。

さておき、子を育てながら自らも子と共に育つ。まずはそこに大きなヒントがあり、そして、それでいいのではないかと思う。